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小池創作所代表・小池一三のブログです
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教会建築とルイ・アラゴンと
今ぼくは、教会建立の仕事をお手伝いしています。昨夜もその打ち合わせをしてきました。
予定されている敷地は、三方向を山に囲まれ、一方向に農村風景が広がっていて、なだらかな山並が遠望できます。2万坪の土地です。そこに美しい教会をつくりたい人たちがいて、それを手伝っています。
ぼくはクリスチャンではありませんが、世界のあちらこちらの「聖なる場」を訪ねてきました。聖地ルルドを訪ね、ピレネー山脈の麓の村々の教会を訪ね、スペイン北部のレオンの教会も訪ねました。黄昏に照らされたステンドグラスは荘厳というほかなく、ずっとこころに残っています。丘の上に建つル・コルビュジェのロンシャン教会堂は、失意にあった自分を救ってくれたし、北欧の小さな教会が持つ清浄な空間に、どれだけ癒されたことか。今、最も行きたいところはピーター・ズントーが設計した、スイス・スンヴィッツにある聖ベネディクト教会です。
日本にもみんなが寄りたくなる、そんな「聖なる場」があるといいな、と思っています。

ルイ・アラゴンという詩人が、こんな詩を遺しています。

ひとりは教会よりあるいてきた
ひとりはそこを避けてきた
神を信じたものも
信じなかったものも

その血は流れ 流れ交わる
(『フランスの起床ラッパ』 薔薇と木犀草より)

この詩は、ナチスの支配下にあったフランスの抵抗者を詠んだ詩です。
ぼくはこの一節を、「ストラスブール大学の歌」だと思い込んでいました。「教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸にきざむこと」という、あの有名な詩です。打ち合わせのあと、家に戻ってアラゴンの詩集を紐解いたら、同じ詩集の「薔薇と木犀草」に出てくる一節であることが分かりました。
これからつくる教会は、300人を収容できることが命題の一つになっています。この規模の教会を、予定されている予算でやるのはとてもきついことです。余分なことをしないが故に美しい教会を、という第二の命題があって、その視点があれば、ひよっとしてやれるかもという気持ちでいます。第三の命題は、いっぺんに全部やらなくていい、時間を掛けてやればいい、あのガウディのサグラダ・ファミリアのように、というものです。
この三つの命題を達成するには英知を結集しなければなりません。
教会の方々にお願いしたいことは、セクトに篭らず、「神を信じたものも 信じなかったものも」この事業に参加できる寛容を持っていただければ、ということです。そうすれば、すばらしいものが出来るという予感を持っています。

À Strasbourg nous irons ensemble
われらはともに行こう ストラスブールへ
Cathédrale couleur du jour
陽の色に輝く教会へ(「ストラスブール大学の歌」より)
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by sosakujo | 2008-02-27 09:00
永田・堀部講演会と建物見学
講演会

京都河原町六条の「ひと・まち交流館」で、永田昌民さんと堀部安嗣さんの講演会が開かれました。主催は自然エネルギー研究所と協同組合もくよう連。参加者は320名も集まりました。建築家の竹原義二さん、横内敏人さん、吉村篤一さん、三澤康彦さんなどもいらして、賑やかな集まりでした。終了後には宮川町の「光琳」で交流会が開かれて、夜遅くまでみんなでワイワイやっていました。
堀部さんのお話で印象的だったのは、話の初めと末尾にグンナアル・アスプルンドの「森の礼拝堂」の写真が映し出されて、人の欲望によって変わってはいけないもの、ずっとそこにあるもの、動かないもの、それが建築なのだというお話をなされたことでした。また、建築はもともと持っている蓄積を大事にすべきで、それが失われてきていること、メカに頼らないこと、メカに頼る前に軒の出を長くする方がいいことなど、いちいち肺腑に落ちました。堀部さんが益子義弘さんのところにいらしたと聞いて、なるほどと思いました。
厚い本なのに意外と廉価な本(TOTO出版/堀部さんが自分で写真を撮ったので安く出来たとか)も買わせていただきました。持ってこられた本は全部売れました。『住まいを予防医学する本』も全部売れて、羽根さんは、足りないのをみて事務所に走ったそうです。こういう時の羽根さんは気配りよく、素早く動く人です。
交流会に向かうときの道も、終わったあとの道も雪が降っていました。寒いけれど、気持ちのいい雪でした。
明日は堀部さんが設計された建物を、永田さんたちと一緒に見に行きます。

建物見学
堀部さんが設計された芦屋の家

夜が明けたら雪が積もっていました。ホテルの朝食は最上階が会場なので、東山の山々と、建物の屋根に雪が積もっているのがよく見えます。鴨川を隔てて見える川端通りこそ路面が見えるものの、ほかは雪、雪。今年の京都はよく雪が降って、ぼく自身、今年に入って三回目の雪でした。京都は雪のよく似合う街です。
朝八時半は永田さんたちと四条河原町で待ち合わせ、阪急電車に乗って十三(じゅうそう)に出て、そこで三宮線に乗り換えて、西宮北で鈍行に乗り換えて芦屋に行きました。堀部さんが設計され、羽根さんが工事された芦屋の家をみるためでした。
芦屋は、ぼくの叔父さんが住んでいて、小さい頃、父に連れられて何回か行ったことがあります。電車で芦屋の駅に着くと、叔父さんが手配された車に乗って、急勾配の坂道をのぼり、お屋敷のためだけの道に分け入ると大きなお屋敷がありました。部屋からは六甲の山並みと阪神沖の海が眺望されました。
芦屋に向かう梅田の駅には、浮浪者がたくさんいて、足を失った傷痍軍人がアコーデオンを持って軍歌をさびしく歌っていました。首からお恵みをいただくための箱を掛けていました。、乞食は地面に皿を置いていました。小銭がまばらに入っていました。敗戦の後遺症がかたちをみせていた、昭和27、28年頃だったと思います。
この梅田の出来事と、芦屋のお屋敷との隔たりがあまりに大きくて、自分のなかでつかみかね、豪華な部屋にいて、ぼくは目を白黒させていました。猫のような目をした叔母さんは、そんなぼくをみて「何でもめずらしそうに見て、一ちゃんは敏感いうか神経質な子やね」と言って、けらけらと笑います。
父は、戦争中は大きな軍服工場を経営していて羽振りがよかった人ですが、戦後は貧乏を囲っていて、芦屋の叔父の家に来ると、何だか引け目を感じているようでした。叔父さんは父の弟で、父は自身の境遇を思って肩身が狭かったのかも知れません。ぼくはそれが悔しくて、このお屋敷にいるときのぼくは、怒ったような顔をしていたのかも知れません。この家では、ぼくは喋らない子だと思われていたようです。

前置きが長くなりました。
堀部さんが設計された芦屋の家ですが、阪急の芦屋川駅から、電車の線路に沿った道を15分ほど歩き、左に折れて急勾配の坂道を登り、中腹あたりで右に折れたらありました。
建物は傾斜地に建っていて、もとは大きなお屋敷を四つに分割した土地ということです。
永田さんと一緒にお邪魔したのですが、堀部さんもいらしていました。
リビングからの眺めがよくて、前の家の、緩やかな勾配のうぐいす色の片流れ屋根と煙突が視覚上の安定を生み出していて、その向こうに海が広がっているというロケーションです。リビングから右手に、玄関と和室の部屋の壁が見えます。この壁は少しだけ手前に振れています。建築主の説明によると、打ち合わせのときに模型をぐいと振って、こんなのどう、と堀部さんが言ったそうです。模型が壊れたかどうかは聞きそびれましたが・・・。
この壁の建物は方形屋根です。その軒先がリビングから見えます。左側の部屋の壁と二つの窓も見えて、その窓につけられた小庇の出が長くて、それも見えます。リビングから三つの屋根が見えるのです。それで、その向こうに前の家のうぐいす色の屋根が見えるというわけです。うまいもんだな、と唸ってしまいました。
ぼくは玄関の上の小さな和室が好きでした。団地サイズの畳よりも、もっと小さな縁なし畳が敷かれていて、ここにいて日長一日本など読んでいたらいいだろうな、と思いました。
壁の色はすべて白色でした。砂漆喰が用いられています。ほたて漆喰でやられてもいいな、と思いました。ほたて漆喰は混ぜ物のない、ほたてそのものの白さで、金魚鉢の金魚が日の光できらりと照らされるように、光の具合によって、白色なのに独得の陰影をつくりだしてくれます。

帰りに、もう一度京都に戻り、雪の東福寺に足を運んで重森三玲の庭を見てきました。
三玲は「昭和の作庭」を代表する作家で、その代表作が東福寺の「八相の庭」です。正月に行ったのですが、生憎閉まっていて見ることができませんでした。
うっすらと雪を被った三玲の庭は、独得の表情を見せていて、そのとき、先程見てきた堀部さんの建物がふいと思い出されたのでした。。
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by sosakujo | 2008-02-25 07:32
元特捜検事が書いた本
伊達からJRの「北斗」に乗って千歳空港に入りましたが、接続が悪く、待ち時間が2時間もあるので、暇つぶしに、空港の本屋で25万部突破しているという際物の本『反転』を買いました。
特捜検事が弁護士になり、闇社会の守護神になった田中森一の本です。バブル期の「紳士」の「裏面」を、これでもかと描いた本ですが、原稿用紙800枚に及ぶ厚い本を、空港の待ち時間と飛行機が関空に着くまでに読んでしまいました。
この本で目を引いたのは、筆者が「バブルが崩壊するなんて夢にも考えなかった」という下りでした。ぼくはバブル崩壊の3年前に、「こんな時代は長くは続かない」と予感して、OMソーラー会員工務店募集のための7千キロのキャラバンを行っていたので、特捜検事を務めた人物ともあろうものがと驚きました。しかし、一流バンカーを含めて、日本の支配層の大半が花見酒に酔っていたわけです。
ただおぞましい限りの本でしたが、バブルとは何だったのか、あの時代を振り返るには格好の本です。ぼくは芝居の演出家をやったことがありますので、人物の属性と俗性に興味を持っています。この本に出てくる、小谷充浩や伊藤寿永光、国会議員の山口敏夫、磯田住銀頭取、末野謙一、許永中など、よく名前が知られたバブル紳士(エスタブリッシュメントと、それ直ぐ横で蠢き棲息したアウトロー)たちの俗性は、一人ひとり個性があって、おぞましくも、おもしろくてなりませんでした。粒が小さく、通俗的な『三国志』を読んだという感じでした。
関空に着いたのは9時を過ぎました。関空は到着ゲートから出口までの距離が長く、出発するときは、この長さが苦痛ではありませんが、帰りの便ではひどく疲れます。この距離を重い荷物を持って走りに走って、JRの「はるか」に乗りました。乗ると同時に列車が発車しました。間にあってホッとしました。
夜汽車の車窓から大阪の街をみながら、かつてこの街で蠢いた者たちの狂騒に想像を逞しくしたのでした。京都に入って、五条に宿を取りました。
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by sosakujo | 2008-02-25 07:17
縄文時代のほたての大きさ
洞爺湖から噴火湾周辺を斉藤真さんと回りました。案内人はホタテ漆喰壁をつくっている「あいもり」の小松幸雄さんです。
噴火湾の全体をパノラマ・イラストにして、歴史的・文化的・空間的な世界を統合的に入れ込もうという狙いを持ち、そのための取材です。小松さんのご案内は、こちらの意図をよみとり、的を得たものでした。詳しいことは、季刊誌『住む。』に連載している「森里海ものがたり」に書きますので、それを楽しみにしていただくとして、ここではとんでもなくおもしろい人に出会ったことを書き留めておきます。
それは、伊達市噴火湾文化研究所々長の大島直行さんのことです。人類学者であり、医学博士でもあり、伊達市の文化活動のコア的役割を担っておられることも特記されるべきことですが、噴火湾の語り部と言ったらいいのか、速射砲のように語られる話のおもしろいこと。たまげる話の連続で、脳髄につよい刺激を受けました。
ぼくと齋藤さんをキャッキャッと喜ばせたのは、有珠モシリ遺跡から発掘された二体の人骨の話でした。この二体の人骨は20歳位の若い女性で、地付きの女性ではないと大島さんは推理します。南海産の貝輪を身に付けていたこともあり、一人の女性は抜歯のあとがみられ、虫歯がみられること(本州の縄文人はドングリクノなどのデンプン質のものを多く食べていたのに対し、噴火湾の縄文人は海獣や魚介類が主)から、明らかに本州の縄文人、それも渥美半島あたりではないかといいます。藤村の『椰子の実』の歌で知られる渥美半島です。さもありなん、ということを思わせます。
大島さんは、渥美半島あたりの人だという「雰囲気がする」といいます。雰囲気とは、何とまあ学者らしくない言葉であることか。根拠は持っておられるけれど、はっきりとは分からない、分からないけれど想像はできる、それを「雰囲気がする」と言われているのですが、この羽ばたきによって、門外漢のぼくらも、縄文生活をありありと想像することができました。まんまと乗せられたわけですが、結構快感でした。
縄文時代のホタテの大きさについてお聞きしましたら、内輪のように大きく、厚くて、固いものだったと明快な回答がありました。ギョッとしましたね、これには。想像を超えていました。ぼくらは今の養殖もののホタテをホタテと思いがちだけれど、それを「内輪のように」と言って視覚化させ覆してくれたのです。
ここの貝塚は人骨も一緒に埋葬されています。ぼくは貝塚を、縄文人のごみ捨て場と思っていたので、これも驚きでした。大島さんはこれをアイヌに残る「もの送り」の考え方とダブらせます。アイヌは、日常生活に使った道具や食べ物の残り滓などを「送り場」に収め、感謝の祈りを捧げる儀式を行います。今流の言い方でいうと、循環、再生を願う祭祀です。
縄文時代は、約1万年続き、黄金貝塚は5000年前の話だけれど、それはアイヌに引き継がれ、似たような生活と祭祀は、本州ではとうの昔に消えてしまったけれど、このあたりではつい200年前まで続いていたと大島さんは言います。弥生時代からの文明志向がいけなかったと、ぼくは大島さんと意気投合したのでした。
この噴火湾文化研究所には、伊達市の所蔵品が置かれている部屋があって、そこも案内してくださいました。目が眩むような凄いお宝がたくさん置かれていて、伊達市の財政が傾いたら、これを売ればいいと大島さんは事もなげにいいます。夕張のことが頭を悩ましているのだな、ということを思いました。北海道は、すぐ裏側に深刻な不況がありますので……。
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by sosakujo | 2008-02-25 07:17
今後の予定など、いろいろ
明日から、イラストレーターの斉藤真さんと一緒に北海道の噴火湾に取材で出掛けます。この取材では、縄文史の先生とお会いします。黄金貝塚遺跡についてレクチャーを受けます。学会論文を三冊ほど取り寄せて勉強していますが、分からないことが多々あります。幾つかの疑問を解いてもらえそうです。この取材を経て、洞爺湖サミットのときに、各国の人に持ち帰ってもらえるポスターを作ります。噴火湾と洞爺湖と有珠山の風景と、その地理的・歴史的・気象学的・文化的な世界を、一枚のポスターに圧縮・凝縮して世界に発信できないか、という無謀な試みです。コンビが斉藤さんなので、楽しくやれそうです。

取材の途中で、ぼくだけ先に帰ります。といっても浜松にではなく、関空経由で京都に入ります。京都で永田昌民さんと堀部安嗣さんの「対談講演」が開かれるからです。参加者が300人を超えたということで、会場に入り切れるか心配されるということです。村田直子さんも、どうしても聞きたいと駆けつけられます。夜は交流会ということで、いろいろな人に会えるのが楽しみです。当日の午前中に仕事のプレゼンもありますが……。

長文の原稿「独立自営工務店という選択」を書き進めています。序論を書き上げました。業界紙の新建ハウジングに連載の予定です。これはリキが入っています。公団住宅の理論的支柱になった西山卯三さんの著作(巨大な山容としかいいようのない膨大な著作)も久しぶりに紐解きました。日本の戦後住宅のプランに決定的に影響を与えた「n(個室)DK」について、その功罪なども書きました。編集長の三浦さんは、どう扱うのか処理に困っておられるようですが、内容はOKという連絡をいただきホッとしています。

季刊誌『住む。』に連載している「森里海ものがたり」に児玉町と秩父のことを書きました。小林建設の伸吾さんの高祖父のことなど書きました。伸吾さんの高祖父(四代前)は、函館五陵郭の武者で、決戦後、奥さんの実家がある児玉町に来て大工を始められたのです。秩父は、あちらこちらを取材しました。3月20日頃に発売の予定です。夏号は噴火湾のことを、秋号は讃岐のため池のことを、冬号は雪の会津を書く予定です。この連載は、最終的に一冊の本にまとめられるといいと思っています。

肝心かなめの本業も精を出しています。もちろん一番大事な仕事です。工務店や自然素材、製材所などのパンフレットやCIやWEBなど、何やかや30種類ほどの仕事が入っています。当然のことですが、一社一社、一作一作違うものを作っています。旅の間せっせとコピーを書いています。飛行機の窓から白い雲をみていると、結構おもしろい案や言葉が浮かびます。それが印刷物などに仕上がったときの歓びが、この仕事の最大の魅力です。
ぼくの仕事は、本やパンフなど、ツールの制作もありますが、基本はプロモーションにあります。対象となる企業や組織のことをとことん分析して、そこの魅力をつかみだして、それを社会にどうつなげるか、どうコミュニケーションをはかるか、そのディレクションの結果がツール制作であって、事務所のスタッフはツールの作り込みに全力を挙げていますが、ぼくの仕事の大半は、この前段にかかっており、制作に関してはコピーを書く役割を負っています。
小池創作所は何をしているところなの、という質問をよく受けますので、仕事の全体を伝えるホームページを制作中です(ほかの仕事を優先しますので、これが遅くなりがちです)。

29日に島根県の益田で講演します。その後博多に回ります。

3月9日に滋賀水口の平野住建さんの住まい教室で講師を務めます。

3月18日、19日に予定している趙海光さんの定番学校、正式に募集を開始します。趙さんは、新しいプランを作っておられて、一回目の参加者にも配布しますので、ご心配なく。そろそろ一回目の参加工務店の動きをニュースにして、みなさんにお伝えしようと思っています。

4月23日・24日に「れんれんゼミin大阪」を開催することが決まりました。
メインテーマは「工務店がつくる家」。工務店とアトリエ設計者、提携の可能性を探ります。
講師陣の陣容も内容もなかなかのものです。

もう少ししたら、中華料理の静華の新しい店のことを紹介できそうです。ぼくはいい話は黙っていられないタチで、「しーっ!」と釘をさされているのに、こうしてちょっと洩らしたりするのです。
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by sosakujo | 2008-02-20 16:41
那須田浩詩集『わが佐鳴湖』
佐鳴湖畔に事務所を移してから、ずっと捜していた詩集がみつかりました。那須田浩さんの詩集『わが佐鳴湖』です。
自宅の書庫にあるはずだと思い、時間をとって二度捜しましたがみつかりませんでした。自宅の書庫は小さなものだけど、それでも6千冊ほどの本があります。この書庫以外に6ヶ所の本棚がありますが、『わが佐鳴湖』は書庫にあるはずだと思って捜しました。
しかし書庫での捜しものは、捜している途中で懐かしい本(このとき、『住まいを予防医学する本』を書くときに参考にと思ったけど捜し出せず、どこかに眠っているはずと思っていた服部知治さんの『日本人のくらしとリズム』あゆみ出版がでてきました。人間の動きと機械の動きの違いを分析していたり、瞽女うたの迫真力のリズム感、北斎がせまった生物のリズム感、日本の赤ちゃんの産声のリズム感など、日本人のリズム感の根源にあるもの、その運動美の極致を書いていて、ヨダレがでるほどおもしろい本です)に出くわして読み出したりして、一向にはかどりませんでした。
けれども、『わが佐鳴湖』は、かなり頑張って捜しましたがみつかりませんでした。次の手段として古本屋に行くか、中央図書館に行こうか迷っていました。中央図書館にはかならずある本だからです。それが今夜、東北の旅を書いたイザベラ・バードの本を捜していたら、何と書庫の中からひょいと出てきました。目立つ場所の厚い本のとなりにありました。ラッキイなことにイザベラ・バードの本もみつかりました。
『わが佐鳴湖』は、白い表紙に、冨塚に住んでおられた野中弘士画伯の佐鳴湖のスケッチ絵が印刷されていて、そうそうこの表紙だった、と思い出しました。発行日をみたら1978年でした。よく覚えている年です。
那須田浩さんは、その頃、地元の出版社ひくまの出版で郷土本を作っておられて、ぼくはボランティアで手伝っていました。取材に同行して、水窪の山住神社や秋葉みちなどにご一緒しました。浩さんの『わが佐鳴湖』は、当時、浜松の文藝関係者の中で評判の詩集でした。
その懐かしい詩集を開きましたら、後記の末尾に「わが佐鳴湖、まだ生きている」と記されていました。今、浩さんはどうされているのだろうか。果たして今の佐鳴湖を「まだ生きている」というのだろうか、と思いました。
佐鳴湖は、鋭敏な詩人の感性には、耐え難い状態にあると思われるからです。
なるほど公園整備がなされ、連日、事務所の前を散策者やジョギングする人が行き交い、人に聞くと「このあたりは湿地帯で、葦が茫々と生えていたけど、よくなった」といいますが、那須田浩さんが書いた佐鳴湖は、その葦の茫々がよくて、それが失われることの惜別の、あるいは怒りの詩だったのです。
浩さんは「いい。たとえどろ濁りであろうとも、そこにはまだ、魚が棲む、鳥がわたる、葦がそよぐ。それらが生きて在る限り、私はこれからも、そこへ足をはこぶだろう。それが、つきあいというものだ」と書いています。浩さんは今もまだ、この湖をつきあうに足りるところと思っているのだろうか、と思いました。

ああ
この黒い汚水の湖も
こうして遠くから眺めると
やはり
すてきにあたらしい
朝の色だ
(「佐鳴湖遠望」より)

この詩は抒情詩だけれど、時を経て詠むと、ぼくには叙事詩のように思われてなりません。
ハイネの詩の裏側に叙事があるのと同じです。
気になるのは、2001年に発行された同人誌「鵠」に詩作を発表された後、新しい詩が発表されていないことです。どなたかご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
ぼくは、この詩集を傍らに置きながら、折に触れて、この湖のことを書いていこうと思います。
ここにいないと分からないことがあります。それを書こうと思います。
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by sosakujo | 2008-02-20 08:42
会津喜多方、一の木 藤巻集落
ばんだい東洋建設の相原さんから、ずっと前から言われながら行きそびれていた、冬の会津訪問をついに実現しました。相原さんが用意されたプログラムは、冬の会津でも格別の場所でした。
喜多方市は、最近の町村合併によって周辺の村落を集めていますが、一の木 藤集落巻まで足を延ばすと、喜多方の匂いはもうありません。一の木 藤巻集落は、飯豊山の麓の村で、豪雪で知られます。58豪雪のときは、道が閉ざされて陸の孤島になり、ヘリコプターで物資が運ばれたといいます。
この日の相原さんは、愛車のセルシオではなく4WDを駆っていました。雪の坂道を上がるには、これでないとダメだといいます。この日の宿所である「いいでの湯」を先に進むと、赤い文字で通行止と表示された大きな看板が立っています。相原さんは、これを無視してずんずんと奥へ進みます。道は川に沿って高度を上げるのですがガードレールがない場所もあり、雪崩の心配がある急勾配の傾斜地も少なくありません。
一昨年、北越塩沢にある鈴木牧之(すずきぼくし)の記念館を訪ね、いろいろ調べたことがありました。雪の川と木々の枝に積もった雪の光景は、鈴木牧之が描いた『北越雪譜』の挿し絵に出てくる世界がそのままありました。
翌日の午前、今も藤巻集落に住んでいる人、前に住んでいた人など7人が集まってくれました。藤巻集落の人の名前は、みんな小椋の姓です。この姓は木地師をルーツら持つ人のもので、果たしてこの村は元和3年(1618年 徳川二代将軍徳川秀忠の時代)に木地師によって開村された歴史のある村でした。周辺の山はブナの木が多く、栃や楢、朴の木などが豊富に樹生しています。
この話に及んだら、荒型のものと、ろくろで仕上げられたお椀、その道具の数々、近江国小椋庄筒井公文所の巻物や鑑札札など、この村の「お宝」が続々と出てきました。
荒型は一束240枚で、木を伐り基形にするまでは男の仕事、お椀の中を彫るのは女の仕事とされ、腕のいい女性は2日で一束仕上げたといいます。足の指に挟んで、くるくる回しながら作業をしたと動作を入れてみせてくれました。
藤巻集落からは縄文土器が出土しています。縄文人は、いい風はあるけれど風害がなく、いい水はあるけれど水害のない土地を選んで住んでいますから、ぼくは、縄文人が住んでいたということは、そのまま住み易い土地である証明だと話したりしました。やがて稲作が入ってきて、住人は平地に降りてしまい、そして何千年かを経て、今度は木地師が入ってきて集落を形成したというのが、どうやらこの村の成り立ちのようです。
藤巻集落には、今九つの家が残っていますが、住人の大半は70歳を超える高齢者で、このままでは早晩亡び村になるのでは、と相原さんはいいます。この村に人が一番寄ったのは先の戦争中で、疎開の人達が加わって98人を数えたといいます。日本が高度経済成長をむかえる前までは、小学校の分校に18人の生徒がいたといいます。現在、分校は廃校になり、麓の一の木本校全体の小学校の生徒は6人、先生が7人という構成です。藤巻集落の隣村、川入は廃村になり、人がいなければ除雪されませんので、冬の道は閉ざされていました。補装道路になったのはごく最近で、「二、三年までは砂利道だった」と相原さんはいいます。藤巻集落の家は九つ。そのために敷かれた舗装の道です。これ以上、道路といってもムリがあるわけで、だからここに「そばの里」をつくりたいと相原さんは考えています。そこに営みがあれば、人は寄ってきて村は亡びません。
このあたりは「そばの里」を名乗るところが多いのですが、日本のそばの8割は輸入されていて、「そばの里」のそば粉の袋が中国製だという噂もあって、日本の縮図をそこにみます。「ここで作られたそばを、あさぎ大根をおろして食べたら最高」だと相原さんはいいます。ぼくは前に会津高田で、あさぎ大根のおろしでそばを食べたことがあります。辛いけれど独得の風味がありました。
あさぎ大根は、ふつうの大根に比べて抗がん性物質を26倍も持っている健康食品です。これを「練りわさび」のように、練り物か粉末にしてそば汁に混ぜるとおいしく、自然食品店から売り出したら、ひょっとするとヒットするかも知れません。
寄り合いでは、藤巻そばの種が保存されているという話がでて、藤巻集落は日中夜間の寒暖の差が大きく、そばを栽培する適地とのことでした。おれは蕎麦屋のオヤジになると言い出す人(今はメガネ屋さん)もいたりして、場は大いに盛り上がりました。
何故、相原さんがそれほどに入れ込むのかと思う人がいるでしょうが、相原さんの奥さんは、何を隠そう藤巻集落出身なのでした。
帰りの車のなかで、木地師は小椋姓と大蔵姓があり、両者は親戚かも知れない、飯田の大蔵さんのルーツも木地師だから、ひよっとすると相原さんは大蔵実さんとは遠い親戚なのかもね、などと勝手に想像したりしました。ぼくの母親の実家は瀬戸の加藤姓で、先祖は瀬戸物をヨーロッパに輸出しようとして難破したとかで、かの陶工加藤唐九郎は遠い親戚だと教えられて育ちましたが、そういうのって、想像を逞しくさせてくれて、結構愉しいものです。写真に残る唐九郎と、自分の骨相、目の細いあたりの感じなど似ているのかもと思ったりして……。
木地師のことはこれからよく調べて、藤巻の話と一緒に、いずれくわしく本に書こうと思っています。
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by sosakujo | 2008-02-19 09:28
新事務所の建物、訪問者のこと
この事務所が「村松もどき」建物であることは、先に書きました。
その村松篤さんが、水﨑建築の水﨑隆司さんと一緒に来られました。水﨑さんは、ぼくの家を造ってくれた大工さんで、丁寧で、丹念な仕事をする大工さんとして知られています。この「村松もどき」の元になった、天竜川駅南展示場のモデルを建てた大工さんでもあります。
水﨑さんは何事も泰然自若とした人で、普段、人さまの仕事をあれこれ言う人ではありません。でもこの建物をみた水﨑さんは、さすがに唖然として、次にはニヤッと薄笑いを浮かべられました。苦笑というか、そんな感じでした。かの村松先生は、そんな水﨑さんを横目にしながら、いたたまれない気持ちでおられたようでした。
そうこうしていたら、塚本浩史・桂子夫妻が、伊礼智さんと連れ立って来られました。
広いねえ、と塚本さん。50坪あるので、5人の事務所としては、広いには広いのです。伊礼さんは、狭い面積を使いこなし、使いまわす名人なので、この広さに戸惑い気味でした。伊礼さんは、短編小説の小品に味わいのあるサマセット・モームのような作家なので、小事務所にはそぐわない広さだと思われたのかも知れません。
まだ引越しの荷物が片付いておらず、お三人にはゆっくりとお茶も差し上げられませんでしたが、覗いてもらえたのはよかったと思っています。
午前中には河合章宏さんがみえられました。
高齢者福祉施設の施設長を務めておられる、ぼくの長年の友人です。心に期するところがありクリスチャンになられ、永田昌民さんの設計で教会をつくりたいと、袋井北教会の人たちと一緒に取り組んでおられます。ぼくはクリスチャンでもないのに、教会に呼ばれて、教会建築についてレクチャーを務めることになり、躊躇うぼくのお尻を押してくれたのが、河合さんと、袋井・三橋医院の三橋孝さんでした。背後に山を背負った二万坪の土地で、土地の取得にようやく目処が立ちました。永田さんの方でも、これから本格的に設計に着手することになっています。
夕方には、入政建築の新野達治さんがいらっしゃいました。
新野さんには、今回の事務所の目玉であるタテ2400×ヨコ1200の、打合せのための大テーブルを造ってもらいました。厚さ3センチのフィンランドバーチに、既製品の脚を取り付けただけの簡便なものですが、旨く八帖の和室に収まって、新野さんは大満足のようです。この和室は意外とよくて、どういうわけか、この大テーブルが入って、かえって静謐な感じが醸し出されました。「入政の住まい教室が開けるといいね」と新野さん。「いいですよ、講師でも何でも務めますよ」とぼく。6人位の小規模な勉強会には、図面もいっぱいに広げられるし、ちょうどいい大きさです。
ぼくの部屋は二階にあります。好きになれない階段であるのが残念(もっとイヤなのが一階のトイレ。入口では一段上がって、中に入ると、階段の影響を受けて二段低くなっています)ですが、部屋からは枝振りのいい広葉樹が窓いっぱいに広がっていて(吉村順三さんの猪熊玄一郎さんの家の「オリーブの樹」ほどではありませんが)、その向こうに佐鳴湖が見えます。湖を隔てて、向こう岸の樹木も見えます。「この部屋は気分いいね」と伊礼さんも、村松さんも、入政さんもいいます。個室はぜいたくだとは思いましたが、部屋があるのだから使わないともったいないと思うようにしました。間に納戸部屋を挟んでアトリエ設計者の縣美樹さんの部屋があります。縣さんの部屋からも湖がみえます。事務所の訪問客が多く、いちいち紹介するので、ご本人は面食らっていたようですが……。
みんなの仕事部屋は、20帖のリビングと、広めのキッチンと、6帖の和室を繋げた部屋です。木曾三岳木工所で造ってもらった小さな食卓テーブルもあり、息子がニトリで買って不用になった籐の長椅子も置いてあります。ぼくは、その長椅子に坐ってお茶を飲み、お菓子を頬ばり、みんなの仕事をみる時間が愉しみです。
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by sosakujo | 2008-02-15 09:37
湖畔を歩く人のこと、三澤さんのこと
佐鳴湖畔の新事務所に移りました。
人間、現金なもので、前事務所の桜並木と分かれることに一抹の寂しさを感じていたのに、湖畔の事務所に来てみたら、違う世界がひろがっていて、これが愉しいのです。この気持ち、失恋をした後の人との出遭いのようなものかも知れません。
ここではまず、朝から晩まで、人が事務所の前を行き来していることが新鮮でした。
といっても、通勤の人が行き来するのではありません。散歩する人、ランニングする人、湖と公園を見に来た人が行き来します。そのウエアとシューズなどを見ていると、それだけで愉しくて、一日が暮れそうです。
湖というのは、人がこんなにもたくさん寄るところなのですね。むかし、夏のストックホルムにいて、湖畔の公園に人が群れている光景をみて、いいなぁと思ったことがありますが、どうして日本でも、そんなふうではありませんか。
近くに公園駐車場があって、事務所の駐車場が決まるまで、とりあえず置かしてもらったのだけれど、そこから事務所に行くまでに、散歩する人、ランニングする人と行き交いました。その老若男女、それぞれ表情が違うのです。
苦行僧のように、深刻な面持ちで哲学しながら歩いている人がいたかと思うと、行き交う人に、いちいちおはよう、こんにちはと声を掛ける人もいます。かろうじて生を得るために、労わり合いながら、必死に歩いている老人夫婦もいます。美容のため、痩せるために歩いている人は、それはそれで直ぐに分かります。日焼けを避けるため、つばさの長い帽子を被っていて、涙ぐましい女性もいて、まことにおもしろく、絵筆の逞しい人なら「鳥獣戯画」のように写し出せるのに、と思ったりしました。
引越しすると、版画の取付金具だとか、何だかんだと買い物が出ます。それで駐車場を行ったり来たりする回数が増えたお陰で、いろんな人に出くわしました。
そんな中に、信州国産材開発協同組合の羽場俊夫さんが、公園通りを車でやってきて、「小池さん」と声を掛けるではありませんか。
「こちらに来たので、今日が引越し日だとブログで知り寄らせて貰った」ということでした。突然のことでびっくりしましたが、久しぶりにお会いして、少しだけ事務所にいらしていただいて、お話ができてよかったです。
長野県長谷村の羽場さんのところに、OMの仲間たちと訪問したのは、もう何年も前になります。
泊まった宿で、喧嘩っ早い三澤康彦と取っ組み合い寸前になって、横にいた奥村昭雄さんと、石田信男さんが止めに入ってくれるかと思って激し合っていたら、お二人は巻き込まれるのはイヤだよ、という感じで知らぬ間に消えてしまいました。それで、三澤さんと奇妙な間合いが生まれて、喧嘩するのはバカらしいね、と止めたことがあります。人にみていてもらっての喧嘩なのです。誰もいないと気が抜けてしまいます。
三澤さんとは、結構、何回か喧嘩していますが、いつもこんな感じで、一夜明けると、また笑い合って話していたりして、どういう関係なのですかね。まあ瞬間湯沸かし器のような人でありますが(先方もそう思っているようです)、いま三澤さんのMs建築設計事務所のパンフレットの仕事をしています。相当に揉めることを覚悟していましたので、一発でOKのサインが出たのには驚きました。そうなのです、三澤さんは案外と気風のいい人でもあるのです。
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by sosakujo | 2008-02-14 10:23
引越し前日
今朝は『住む』の春号の原稿を書いていて、無事、編集部に送付しました。
いつも締め切りぎりぎりで迷惑を掛けていますが、今回は2日早く書き上げました。というのは、今日は引越しのための荷造りで、明日は引越し本番だからです。
今の事務所は一昨年の11月に入りました。
電気の容量が足りなくて、年柄年中ブレーカーが飛んで、コンピュータがやられやしないかと、何回冷や汗をかいたことか。でも、離れるとなるとさびしいものです。前が桜並木で、お花見ができると喜んで入居しましたが、結局、一回きりのお花見でした。深夜まで賑やかなお花見で、一年前だというのに、この事務所を離れるというと、すでにもうなつかしい思い出になっています。
この事務所で4冊の本を作りました。
徹底的に調べないと気がすまないタチなので、1冊作るたびに、本がどかどかと増えました。こちらに引越してきたときより、本とか資料を入れる段ボールがずいぶんと増えました。本を作るたびに、集める本が異なります。今は、北海道噴火湾のことを調べていて、大学研究機関の研究報告書などを懸命に探しています。ぼくには、そういうときが一番たのしいようです。
明日からは佐鳴湖畔の事務所です。
キッチンが今の倍ぐらいあるので、まかないをどうしょうかと相談しています。広い事務所なので、二階の一部屋に設計者の縣美樹さんに入っていただくことにしました。先日、たまたま事務所に寄られたので、予行演習と称して、その日のお昼ご飯をつくっていただきました。腕はいいようですので「戦力」になると期待しています。
長らく閉じていたホームページを、新事務所の開設を機会に開こうと準備しています。紺屋の白袴で、人様のものばかり作っていますが、腰を据えて仕事をするため、まず自分たちのホームページを作り直すことにしました。
町の工務店ネットのホームページも、生きた、動く、刺激的にホームページにするべく準備しています。新しい小池創作所に、どうぞご期待を。
次回は入居の感想を書きます。
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by sosakujo | 2008-02-12 16:10