title
小池創作所ロゴ
小池創作所代表・小池一三のブログです
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
以前の記事
2013年 05月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
最新のトラックバック
現代町家塾
from ShopMasterのひとりごと
芍薬(しゃくやく)
from aki's STOCKTAK..
敵こそ、我が友 /MON..
from aki's STOCKTAK..
住まいネット新聞「びお」..
from simple pleasur..
住まいネット新聞「びお」..
from ONE DAY
こんなのができました♪「..
from ONE DAY
京都議定書 アメリカ
from 地球温暖化
京 静華 プレオープン
from irei_blog
静華
from 徒然ダメ日記 およそTANT..
チベット自治区ラサへグー..
from グーグル地図で世界遺産巡り〜..
リンク
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
AX
<   2008年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧
定番を勉強する工務店の学校
 昨日、一昨日と、伊豆高原で趙海光さんによる「定番住宅」を学ぶ工務店の学校を開きました。趙さんは、開口一番「誰も来ないかと思ったら、こんなに大勢」と言って驚かれ、20名の参加者を前に、実質8時間びっしりと講義され、夜は深夜までみんなに付き合ってくださいました。内容は、趙さんによって周到に準備されたものでした。趙さんに感謝します。

 内容は、ぼくが最近口にしている「新しい設計言語」を、見事に展開されていて、ご本人は謙遜されて、幾つかの事例に学んでと仰っていたけれど、独自の視点が貫かれていて感銘深いものがありました。
 設計塾というと、普通は「建築家の手技」が語られるのが普通ですが、今回は、むしろ手技を語ること、触れることを意識的に避けられました。参加者の中には、それが残念、趙さんの手技を知りたかったという感想をもらす人もいましたが、ぼくは、それを趙さんがなさらなかったことに、定番は原理なりという決意のようなものを感じたのでした。
 講義では、増沢洵さんの「最小限住宅」に始まり、塚本由晴+貝島桃代さんの「ミニハウス」、ご自身が設計された「鎌倉の家」、難波和彦さんの「箱の家」、UN建築研究所の「サンゲンカクの家」、野沢正光建築工房/半田雅俊設計事務所/相羽建設による「木造ドミノ」について、かなり詳しい分析がなされ、そこから引き出されてくる町家型住宅の要素性、展開性について語られました。これがおしろいこと、おもしろいこと、興奮を覚える名講義でした。
 途中で、今回提案の「町家型住宅」2案が提示され、コアとなる母屋とゲヤの関係について、フォルクスハウスと違う設計言語が語られました。フォルクスハウスは20を超えるベースパターンがあり、それを補うものとしてゲヤがあります。この方法は、608とかを6008とか呼び名を少し変更するだけで、ほかのシステムでも踏襲されているところで、フォルクスハウスの影響の大きさを示すものですが、趙さんのそれは、この方法と大きく異なるものでした。
 その詳細は、いずれご紹介することになりますが、母屋のシンプルさと、ゲヤの使い回しの方法において秀逸のものがあり、それは旧くて新しいと呼び得る自然さで、ぼくらの前に提示されたのでした。
 それはまた、工務店がやるべきこと、その余地の残し方において、なるほどと納得させるものがあり、これからの展開が大いに期待されるものとなりました。
 何社かの工務店が、スクールの場で早期実現を約束されました。これからは実施例をもとに、現地勉強会が開かれ、みんなで検証しながらノウハウが蓄積されていくことになります。

 今回の仕掛けが、どれだけ効を奏するのかまだ見えませんが、可能性の大きさを、みんなで確認できたのがよかったと思っています。

 宿のご飯がおいしく、われわれだけの貸し切りでしたので、夜遅くまでわいわい語り合えた
のもよかったと思っています。宿の名前は、伊豆高原「石ばし庵」です。勉強会場は、池地区の「生涯学習センターを使わせていただきました。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-31 11:45
大阪から札幌へ
 京都での勉強会の翌日、午前中は大阪で仕事をこなし、その足で関空から千歳に向かいました。前日、大荒れの天候で欠航が相次ぎ、5時間後れで到着したことをテレビ報道で知り心配されましたが、この日のフライトは時間通りに千歳に着きました。
 建築家の村松篤さんと空港で合流し、列車で札幌に向かいました。札幌駅の改札口で和田さんが待っておられて、再会を喜び合いました。ホテルに荷物を置いて、雪が舞い散るススキノの行きつけの鮨屋さんに行きました。「お久しぶりで」と鮨屋さんから声を掛けられましたが、この鮨屋さんは、もう大分前に札幌在住の建築家・圓山さんから紹介を受けたところで、人にも紹介して「おいしい、おいしい」と絶賛されている鮨屋さんです。
 おいしいものを食べて、お酒を呑むと、口は滑らかになり、ああでもない、こうでもないと話に花が咲きました。
 和田さんは、今でもソーラーに関心を持ち続けられ、農業用ソーラーに取り組まれています。厳冬期の長沼のビニールハウスで、青々とした野菜を栽培され、そのビニールハウスで一冬過ごされた快挙は、季刊誌『住む。』で取り上げられましたが、それは今から考えると空前絶後のことで、なかなかの話でした。
  「10年やることが早過ぎたね」
 と和田さんはいいます。奥さんからそうからかわれ、みんなからもそう言われるそうです。洞爺湖サミットを前に、もし厳冬期の北海道で青々とした野菜をつくり、ビニールハウスに寝泊りしている爺さんがいたら、これはテレビ報道ものです。全国の話題を攫う話になったことでしょう。10年早く、お金もなくてやり出したことなので、柿の木に熟し切れずに残っている柿のような、ほろ苦さを伴っているのです。
 和田さんに似て、ぼくがやることも、だいたい早過ぎて、奥村まことさんからは、旦那の奥村昭雄と、和田弘と、小池一三は「三大おっちょこちょい」だと烙印を押されています。そのうちの二人が、久しぶりに合い、久しぶりにおいしいものを食べ、一杯やればどうなるかは想像に難くないところで、果たして盛り上がりに盛り上がり、その分、ほろ苦さもドカ雪のように重いものになり、哀歓こもごもの時間を過ごしました。
 外に出たら大粒の雪が降っていました。喧騒のススキノですが、雪の夜空をみると静寂そのもので、風のない雪はいいなぁ、と思いました。
 和田さんの事績は、その栄光と挫折と、おっちょこちょいぶりを含め、いつか書きたいと思っています。ゆうに一冊書くだけの内容のある人です。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-27 16:43
京都で開かれた勉強会
24日に京都で『住まいを予防医学する本』の勉強会を開きました。
清水寺から産寧坂を少し下って横に折れたところにある、京都市の文化財保護センターが会場でした。桧皮葺の屋根の建物で、隣に清水小学校があり、間もなく廃校されるということでした。この小学校の建物がなかなかよくて、名建築の一つといっていい建物ですが、近代の建物は文化財の対象としては外されがちで、その保護センターの隣に廃校される名建築があるのは皮肉が過ぎると思ったのでした。
 実は産寧坂は、ぼくの母が産まれた場所で、清水小学校は母の母校です。生前、産寧坂とこの小学校のことをあれこれ語っていたことを思い出し、懐かしくもあり、哀しくもありました。
 勉強会の方は、狭い会場にびっしり集まってくださって、朝10時半から、夕方5時までびっしりと内容の詰まった勉強会になりました。
 この本は、昨年7月に発行されてから、もうすぐ半年になりますが、各地の工務店さん
によって「貸し本」として貸し出され、読まれています。
ぼくの話は、本の冒頭にでてくる「ヒポクラテスの誓い」から始めました。ヒポクラテ
スはギリシャ時代の人ですが、この医学の始祖が立てた「医の倫理」というべき誓いが、心ある医師の間で改めて取り上げられていることに触れ、そして、この「医の倫理」が、今、音を立てて崩れている現況をお話ししました。
 例証として、現在、アメリカの保険会社が進めているHMO(ヘルス・メインテナンス・オーガナイゼーション)という新種の病院が、そのうち日本の現実になることを挙げました。この制度は、民間保険に入った人は、保険会社が指定する病院(HMO)で治療することが義務付けられ、治療と薬の処方に関する詳細にしたがうよう契約書に取り決められています。医師は、それ以外の治療や薬があることを患者に言ってはならないというギャグ(口枷)が強いられます。
 最近、アメリカの保険会社のテレビコマーシャルが増えていて、それ見るたびに、ぼくはおぞましく感じられてなりませんが、「構造改革」にとって「憎き敵」である国民皆保険制度が崩れたあとに起こり得る「アメリカ化」の現実を、この例は示しています。
 『住まいを予防医学する本』が、いかほどの力を持ち得るのか分かりませんが、自らの健康は、自ら防衛(予防医学)しないと守られないことを、この本は言っています。「構造改革」の名のもとに進められている「医の改革」は、今、新たな「構造」を生みつつあるのであり、「ヒポクラテスの誓い」は、それが「医の倫理」に著しく反していることを告発しているように、ぼくには思われてなりません。
 ぼくが熱っぽく喋ったことがパスとして通っているかどうかが問題だと、伊礼智さんは言われていて、今回の話も、通りにくい話だろうなと思いながら、それでも語り続けるのがぼくだと思うことにしました。居直りかも知れませんが、起こっている医の現実をみると、ぼくは無邪気に「健康増進住宅」などと言うことなどできません。せめて住まいがマイナスにならないようにすべきで、予防的行いを奨励するのがやっとです。
 現実が進行すればするほど、この本の価値はあがると思っています。それを救いにして、まあコツコツやるしかありません。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-27 16:42
釧路の和田さん
  この金曜日から、講演の仕事で冬の北海道に入ります。この機会を活かし、札幌で、久しぶりに釧路の和田さんとお会いすることになりました。和田さんは、今は札幌におられて、釧路に住んでおられませんが、ぼくの中ではいつも「釧路の和田さん」です。空気集熱式ソーラーの揺籃期、厳冬期の釧路で和田さんが試みられたこと、PLEA国際会議での活躍など、和田さんの活躍は釧路と切り離してはあり得ない、とぼくは思っています。
  和田さんは、共同通信の配信で地方紙の小さな囲み記事で、ぼくらがやっているソーラーのことを知られ、閃くものを感じて浜松に電話を掛けてこられました。その電話を受けたのが、ぼくでした。そのときのぼくの反応は鈍く、釧路でなど到底ムリな話だと思い、そのことを伝えました。和田さんは「そんなことない。冬の釧路はよく晴れていて、ソーラーの適地だ」と怒ったように反論されました。
  「それでは考案者の奥村昭雄さんによく聞いてみる」といって、ぼくは電話を切りました。それで奥村さんにお聞きしたら、こともなげに「やれるんじゃない」という話でした。
  「外気温はきついけれど、太陽エネルギーの力は、東京都と左程違わない。断熱気密をよくすれば、東京と同じように利用できるはず」
  というのが、奥村さんの答えでした。今なら常識になっていることを、そのときのぼくは一知半解でいたのです。目からウロコといいますが、ほんとうに目からウロコが落ちた思いがしました。 「やれるそうですよ」と和田さんに電話したら、「言った通りでしょ」と、嬉しそうに言われました。
  それからというもの、ぼくは何十回釧路に足を運んだことか。50回は下りません。
  そのたびに、和田さんに空港に出迎えていただきました。現場に足を運ぶだけでなく、道東のあちらこちらに案内していただきました。たのしい時間でした。あれから、もう20年近くが経ちます。
  今回は、和田さんのモデルハウスや根室の家を設計した村松篤さんと一緒にお会いします。彼はPLEA国際会議以来といいますから、10年ぶりの再会です。和田さんは、今、ソーラー農園に取り組まれていて、これをもう10年間続けておられます。熱いお話をお聞きするのが楽しみです。
  北海道から戻ると、伊豆で趙海光さんの定番住宅のスクールです。
  第1回の勉強会の参加者は20名です。この内容については、また書きます。
  
  
[PR]
by sosakujo | 2008-01-22 11:50
トヨタのプリウス
  季刊誌『れん』2号は、『住まいを予防医学する本』をどう読むか、という特集を組みました。
  この本は、住まいづくりの羅針盤(コンセプトブック)になれば、ということで編みました。
  それで、今回の特集のインタビュー記事で、冒頭にコンセプトとは何かという設題を立て、ボルボとトヨタのプリウスについて、こんなことを述べました。

  ぼくはむかし「ボルボ13」を名乗っていたことがあります。車をスウェーデン車のボルボに変えたときに、建築家の秋山東一さんから「いよっ!ボルボ13」と声を掛けられたことから、つい名乗ることになりました。『ゴルゴ13』という人気マンガを捩っての話で、13は一三というぼくの名前から出ています(笑い)。で、この車は「安全車」ということを標榜していました。「銀行はBMWに乗っていると遊び人にみるけど、ボルボに乗っていると信用される」という話を、鹿児島シンケンの迫さんから焚きつけられて、この車を選択したのだけれど、ボルボに最初に乗ったときの第一印象は鋼鉄車という感じでした。ディラーに行ったら、営業用の「コンセプトブック」が置かれていて、それを読んだら、シンボルマークは鉄を意味していて「スウェーデンの雪と鉄鋼石が生んだ安全車」というようなことが書かれていました。斜めのラインと、それを際立たせる四角いボディの形態が、いかにも質実剛健という感じを受け、なるほどと納得しました。
――でも今は、リコール隠しの疑惑まで伝えられて、
   ボルボの安全神話は崩れつつありますね。そのようですね。フォードの傘下に入ってからのボルボと、かつてのボルボとでは別物のクルマといわれています。岩場のうえから車を突き落とすボルボのコマーシャルがありましたが、あの徹し方は消えました。今でもボルボは安全車を謳っていますが、デザイン的にも丸くなって、外部からの衝撃をボディーが跳ね返す鉄の塊というイメージは滅失しました。最近の車はアルミニウムが多用され、なんか缶ビールみたいな車
が増えていますので、かつてのボルボを懐かしいのですが、重いことによる燃費の悪さと、事故で衝突したその衝撃を吸収しながらつぶれていくとき、アコーディオン状のプリーツがプレスされた車が出てきたりして安全な車が増えていますから、前のコンセプトに頼っているだけでは、もう通じないのでしょうね。

環境車プリウス躍進の秘密

   コンセプトは、モノとコストと時代性の読みが一致したとき人を納得させるパワーを持ちます。この点で典型的な成功をみたのがトヨタのプリウスです。この車によってトヨタは業績を飛躍的に伸ばし、GMを凌駕する企業へと成長しました。トヨタは、車そのものをトヨタ全体のコンセプト・カーとして、これを押し出しました。サスティナブルな車の未来像は、これだといって具現化しました。「タイタニック」という映画で一斉を風靡したデカプリオが、颯爽とプリウスに乗って、アカデミー賞の受賞会場に駆け付けた姿が報道され印象に残っていますが、それはこの役者のコンセプトを表明したことにもあり、プリウスほどコンセプトを生きたものとして使った例はないのではないでしょうか。

――WEBではクレーム隠しも言われていますが?
   プリウスをコンセプト・カーという場合、正しくはイメージアップ戦略車というべきかも知れません。当初においては、販売利益を上げるための車でなく、企業イメージアップのための広告費に位置づけられて価格決定がなされました。これはエコならぬエゴで知られるトヨタとしては異例のことです。プリウスというネーミングは始祖鳥(学名/archaeopteryx)ですが、こ
れに掛けたトヨタの意気込みが伝わってくるネーミングですね。クレーム隠しも何も吹き飛ばしています。  (後略)

今朝(15日)の朝日新聞の一面に「家庭充電ハイブリッド車発売 トヨタ『10年までに』」という記事が出ていました。
家庭用コンセントから充電できるプラグインハイブリッド(PHV)車を、2010年までに米国市場を中心に販売を開始するというのですが、これを読んでぼくは、自動車を携帯電話みたいなことにするのだと思いました。これは電力も大歓迎で、深夜電力利用の決定版になり、もっと原発が必要になるという理由にされるのが気掛かりです。
BMWは水素による燃料電池利用をターゲットにしているといわれ、ぼくは燃料電池に期待したいと思っていますが、しかし、ここまで来ているのですね、車は。30年後には、「昔、町中にガソリンスタンドがあった」ことがテレビの番組で懐かしそうに語られることになるかも知れません。それが現実味を帯びてきたように思います。


    
[PR]
by sosakujo | 2008-01-15 09:50
高田光美さんの版画
  季刊誌『れん』2号の編集作業を、今朝、終了しました。
  表紙は1号に続いて、高田光美さんの版画です。美しい雪の結晶が図案化されています。前回は秋だったので稲穂でした。季刊誌なので、四季折々の季節感をあらわす表現ということで描いていただいています。
  この版画の横に、短い文章を添えるようになっていて、今回、ぼくはこう記しました。

  結晶

  ダイヤモンドも、雪も、
  氷砂糖も、結晶は美しい。
  文豪スタンダールは
  有名な「恋愛論」のなかで、
  恋愛の「結晶作用」を書き、
  それは「美点を持っている
  ことを発見する精神の作用」
  だと書きました。

  「雪」ということになると、幼い頃に、中谷宇吉郎さんの『雪の話』という本を読み、その後、岩波新書の赤本で『雪』を読んでいるので、それにちなむ話を書こうかと思いました。また、『北越雪譜』の鈴木牧之は、越後塩沢にある記念館を訪ねてもいて、あのあたりを調べたことがあるので(高田光美さんは越後長岡の出身です)、それを書こうかとも考えましたが、ふいとスタンダール『恋愛論』の中にでてくる「結晶作用」の話を思い出しました。
  ぼくの文章の中に引用した、愛するものの新しい「美点を持っていることを発見する精神の作用」という箇所は、スタンダールがザルツブルクの塩抗で体験した話にもとづいています。

  「ザルツブルクの塩坑で、廃坑の奥深くへ冬枯れで葉の落ちた樹の枝を投げこみ、二、三ヵ月して引きだして見ると、それは、輝かしい結晶におおわれている。 山雀(やまがら)の足ほどの太さもない細い枝も、無数のきらめく輝かしいダイヤをつけていて、もうもとの枯枝を認めることはできない。 私が結晶作用というのは、つぎつぎに起るあらゆる現象から、美点を発見する精神作用のことである。(第二章 恋の芽生えについて)

しかし、この「結晶作用」は、気になる相手の全てを美化してしまうという心理の動きをあらわしている段階で、本当の「結晶作用」は、いったん溶け出した後、「自分は本当に相手を愛しているのか?本当に愛されているのか?」という疑惑に駆られながら、「そうだ!間違いなく相手を愛している(愛されている)!」という確信が訪れることによって真の結晶化が進む、とされています。スタンダールはこれを含む恋の進行過程を7つの段階に分けて書き、さらにスタンダールは恋愛を4つに分類していて、いろいろある恋愛論のなかで白眉とされる本といえます。

  高田光美さんの版画に、このスタンダールの言葉を添えたら、恋愛模様の「結晶作用」を図案化しているようにも受け取れて、即物的に雪そのものを書くよりよかったと思っています。
  次は春号。きっと匂い立つような春の空気が描き出されることだろう、と楽しみにしています。
  






  
[PR]
by sosakujo | 2008-01-14 11:40
定番化シリーズのコードⓑ~ⓒ  
定番化シリーズのコードⓑ  
建築家がデザインします

多数者の住宅である「定番住宅」は、シンプル・イズ・ベストなものでなければなりません。そしてそれが魅力あるものであるためには、実施例に魅力がなければなりません。
この魅力を引き出すには、建築家の力を必要とします。
「定番住宅」は、まず建築家によってデザインされます。建築家の仕事は「一品生産」たらざるを得ない性格を持っていて、その知的労働の成果は、設計依頼者のクライアントの要求を満たし、その享受をもって完結してきました。
建築家は、一部のクライアントに対する「奉仕者」(私的有用性)というだけでなく、「多数者の住宅」(社会的有用性)のためにも役割を果たすべきで、それは建築家が果たすべき職能だとわたしは思っています。
偉大な建築家――フランク・ロイド・ライトもコルビュジェもグロピウスも、日本の前川國男も吉村順三も、この「多数者の住宅」のための仕事をやっています。
ライトは、「手ごろな価格の家をつくるということは、アメリカにとっていちばん大きな建築問題」であり、「横丁の小さな住宅といえども、大道に面する大邸宅と張り合おうとさえしなかったら、あるいはまた、アメリカの田舎の村々が大都会をまねることさえなかったら、それはそれなりの魅力がもてるはず」(『ライトの住宅』遠藤楽・訳 彰国社・刊)だといい、ユーソニアンハウスを提唱しました。
思うにライトは、そのとき路傍の住宅を見過ごせなかったのだと思います。荒廃した住宅光景を非難したり、あるいは無視するだけで済ませられなかったのだと思います。ライトが偉いのは、当時としては新技術であった重力式暖房(床暖房)をユーソニアンハウスの標準仕様にしたことです。コストからみて、入りようのない工事をほかの工事費を抑制することで、ライトは実現したのでした。
「定番住宅」に参加する建築家は、この動機の純粋さや意気込みを大切にしてほしいと思っています。今の日本の住宅は、先にみたように荒廃が極まっています。多くの建築家は、これを非難するか、無視し、傍観することで自己防衛しています。これを変えようとする動きは幾つかあり、秋山東一さんのフォルクスハウスに先駆をみますが、困難な仕事であることは確かです。
この困難さの理由は何なのか?
わたしの見方では、設計料が見合わないというのが一番大きいと思っています。急に現実っぽい話になって恐縮ですが、下部構造であるお金の問題は避けて通れませんので、あえて書きます。趙さんが指摘するように、2000万円程度の住宅で、建築家が10何%かの設計料を取り、工務店が20%を超える利益を挙げると、実際には何もやれないのであって、この問題に解が与えられないと、物事は動きません。
一社の工務店でムリなら、10社の工務店で一人の建築家を支えればいい、というのが今回考え出した方式です。
「多数者の住宅」にとって大切なことは、手ごろな価格で求められる質的に高い住宅をどうしたら生むことができるか、ということです。この難題は、地域工務店に課せられた責務であると同時に、住空間創造の水先案内人である建築家の責務でもあるので、共同・協同・協働する渦のなかに是非建築家は加わってください、というわけです。

定番化シリーズのコードⓒ 
工務店が地域最適化をはかります

建築は土地に固着して存在します。
流通が盛んでない時代、人々は近くの山の木や、草や、石や、土や、紙や、布を用いて家を建ててきました。流通経済が発展し、また、鉄とコンクリートが建築に用いられるようになって、建築は地域性を喪失したかにみえますが、20世紀末から、伝統的な文化や、気候の影響を踏まえた建築を好ましいと考える思考へと回帰しており、ウッドマイルズなどの流通概念が重視されるなかで、地域アウタルキー(自給自足圏)への志向が強まっています。
高速道路網の整備や、日本独特の小口輸送の展開などもあり、資材調達については、このモビリティを活かしつつ、同時に地域材利用を進めることが、これからの工務店の方向性です。
建築家によってデザインされた「定番住宅」を、どう地域化し、「方言」として成立させるかは、工務店の役割と器量に掛かっています。
建築家の職能に対し、工務店は、その土地の歴史や文化伝統、手に入りやす
い建築材料、経済性などを考慮し、現実的・多角的な視点から「地域らしさ」
を検討しなければなりません。
建築家は「美」だとか「自分の世界」に夢を持ちますが、工務店にあるのは現実です。絶えず現実的解決が求められます。地域最適化とは、どう現実と折り合いをつけ、地域の人に受け入れられるものにするということです。地域の人にとって、手の届く価格のものでなければならず、使えなければ役に立ちません。
「定番住宅」は抽象的ではなく、何より具体論でなければならないのです。そのためには、定番設計のコードをよく理解し、それを地域言語に翻訳し、適地システムとして馴染ませなければなりません。
このあたりを「設計のコツ」としてつかんだとき、建築家による「定番住宅」を工務店がものにしたといえるのです。わたしはこれを、「定番住宅」の「工務店内部化」と呼んでいますが、建築家の「設計言語」をそのまま現地化しないで、工務店がよく吟味し、咀嚼し、地域の住宅に馴染ませる努力をしなければなりません。
最近、頓に元気のいい工務店は、わたしがみるところ、この「工務店内部化」に成功した工務店です。その背景に、わたしは秋山東一さんのフォルクスハウスの影響を見ています。それらの工務店は、フォルクスハウスをよく学び、上手に摂取し、地域のものにしています。これは工務店の努力あってのことですが、同時にそれは建築家の本懐でもあるように、わたしには思われるのです。

定番化シリーズのコードⓓ   
設計費を応分に負担し、ノウハウを共有する仕組み

定番化実施のフローは、おおよそ次の通りです。

・応分負担の原則=建築家は、定番住宅の基本システムを構築し、システムとして運用できる設計図書をまとめます。この費用は参加した工務店が応分に負担します。
・スクールに学ぶ原則=建築家は、設計システムを学ぶためのスクールを組織し、定番住宅に取り組みたい工務店は、それに参加します。
・著作権・肖像権の原則=参加工務店は、その定番住宅を実施する権利が与えられますが、著作権・肖像権などは建築家に帰属します。
・クレジット明記の原則=建物見学会を実施したり、書籍・雑誌・ビデオ・パンフレットなどの印刷物、ホームページなどに掲載する場合は、建築家のクレジットを明記します。但し、建築家の側からみて、その住宅が自分が設計したものと似て非なるものであり、容認できないものであった場合は、クレジットの記載を拒否、あるいは留保できることにします。
・工務店一社あたりの費用負担は、18万円程度と設定します(設計者15万円/プロデュサー3万円)。工務店にとっては、これは破格に安い設計料です。建築コストへの影響は少なくて済みます。
・スクールの参加工務店数は一回15社までとします。二人参加する工務店もありますが、濃密な内容ということでいうと、人数的には25名がリミットです。もし人気が高まって参加工務店が応募定数を超えた場合は、第二次募集に回ってもらいます。
・つまり、人気が高ければ二次、三次と続くわけですから、建築家はその都度設計料を受け取れます。その代わり、人気がない場合は、建築家は収入を得られませんし、スクールの開催も危ぶまれます。建築家にとっては、それなりのリスクを伴う取り組みであることを承知してください。
・参加者募集の成否は、プレゼンテーションに掛かっています。プレゼンテーションは、町の工務店ネットが開催する「れんれんゼミ」を発表の場とします。「れんれんゼミ」は参加工務店も多く、業界紙などの注目度も高いので、構想発表の場としては格好の場です。ここで構想を述べ、募集をはかりますが、最低定数(6社)に達しない場合は流れます。尚、「れんれんゼミ」では、プレゼンテーション費用という名目ではでません。講師料(少額)・交通費(実費)として支払われます。
・「れんれんゼミ」で参加工務店を募り、最低定数に達したら、スクールの日程を決めます。建築家はスクールの日までに設計システムをまとめ、当日のカリキュラム等をまとめます。
・最低6社でスクールを開始する場合、建築家の収入は90万円(スクール会場への交通費込み)に限られます。しかし、6社が頑張って評価が高まると二次募集の参加者は増えます。工務店は、費用が伴うものは様子見します(この傾向は、最近頓に増しています)。しかし、参加していなくても「ウの目タカの目」でスクールの行方をみていると考えるべきで、そのうち人気がでるのか、失速するかはスクールの内容と、その後の展開次第です。工務店には様子見ばかりしないで、自らのアイデンティティは、自ら拓くべきで、自ら風を切ってほしいと思っています。そうでないと、本当のことは学べませんから。
・最終的に、定番住宅を実施するかどうかは工務店に委ねられます。プレゼンテーション時点でこれはイケルと思っても、スクールに参加して心変わりすることもあります。そういう場合には、実施しなくても結構です。
・実施へと踏み切り、一棟目の建築が竣工したら、工務店は建築家とプロデュサーを交通費・宿所などを工務店の負担で招待し、他の参加工務店にも知らせて見学会を実施しなければなりません。
・現地に集まり、どう実施したのか、何が問題だったのか、予算通りに行ったのかなど、工務店から実践報告を受けることで、各地の工務店のノウハウの蓄積が活かせるメリットが生まれます。

このフローをみると、一見厄介な感じを受けますが、建築家との関係については、普段、だいたいこういう感じでやられており(たとえば交通費は別途請求になっているとか)、思われるほど特殊なことでなく、プロデュサーであるわたしとしては、実際的で、結構うまいやり方だと思っています。
今回の「定番住宅」企画の最大のポイントは、工務店による実践にあります。
建物竣工後、現場に立って問題を摘出し、検証し合います。というより、現場に立てば、たいがいのことが透けて見えます。
建築の結果、建築家の意図をよく理解し、設計図書に忠実な工務店もあれば、建築家にとって、これは自分の設計ではない、こんなもの自分の名前を冠して発表されたら困る、というものも出現するでしょう。建築家は、自分の「美」や「世界」に忠実であることを以て建築家なわけですから、そこを崩されるのは一番イヤなことです。
この取り組みでは、クレジット記載中止の権利を建築家は有しますが、工務店の勝手をある程度許容する度量がなければ、この試みに最初から参加しない方が賢明です。何が飛び出すか分からないおもしろさというか、一種のアノニマス性(匿名性)にこの試みの良さがあるのですから・・・。
工務店は、その土地に存在し、その土地にこだわりを持ち、その「強情」を持つことで、地域らしさを主張しています。デザイン的にみて、玉石混交は免れません。何が「玉」で、何が「石」なのか、建築家は滔々と意見を述べ立て、ある場合には怒り狂い、ぽろぽろと泣いて訴えても結構です。しかし、最終的に選ぶのは工務店であり、地域とユーザーであり、参加工務店を含めての検討会に委ねられるべき、と考えたいと思います。
かなり乱暴で野蛮な話でありますが、この「波乱」というか、「るつぼ」というか、切磋琢磨こそ、今回のプロジェクトの勘所です。
落ち着きどころは時間が決める、と思うことです。
建築家には、工務店が少々弄くっても壊れない頑丈な設計システムを生んでもらいたいと思っていますし、工務店には、建築家の意図するところを深く読み込み、その実現をはかることに懸命の努力をしてもらいたいと思っています。ただ、相互に臆病になってほしくありません。距離を詰め合って、ぶつかり合い、弾き合い、喧々囂々とやり合うことを望みます。

定番化シリーズのコードⓔ 
経済性(コスト)を重視します。

設計のクオリティを落とすことなく、コストダウンをはかることが定番化の要諦です。何を取り入れて、何をバッサリと削るか、シンプル・イズ・ベストな定番住宅は、このプロセスを徹底的に踏むことなしには成就されません。
定番化に欠かせないのは、この表現的な突き詰めと共に、寸法や材料の選択などを整理分析し、数量とコストの把握を行い、それをマトリックスなどに要約できるところまで詰め切ることです。
制約やルールを定め、それを突き詰めて行って、これしかないという表現に至ったときに、その定番住宅の独創性が生まれます。
工務店には、実際、この削り落しがむずかしいのです。工務店はコストカットはできますが、本質的なものを残しながら「美」を追求しきれないからです。この地味な仕事と、設計の飛躍が一つのものになったとき、システムといえる定番住宅が誕生するのです。
建築家は、職能を突き詰めることを自らに課し、工務店は、それを地域に受け入れられるものにしなければなりません。
この両者の関係性の上に、定番住宅の基本コンセプト――手ごろな価格で実質価値の高い住宅は実現されるのです。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-09 08:40
奥秩父の取材旅行
  京都から戻った後、奥秩父に入りました。季刊誌『住む。』に連載している『森里海ものがたり』の取材のための旅でした。12月に行った時に、秩父杉の伐採現場が中津峡の上流ということを聞き、今回、入ることにしました。木材運搬の索道の基地が道路沿いにあって、そこから山を見上げましたが、急峻な山に視界を阻まれて、杉林の全容をみることはかないませんでした。
  奥秩父の山は、早壮年期の侵食地形とされ、山腹は急傾斜で、渓谷沿いにV字谷を形成しています。荒川の源流とされる甲武信岳(標高2475m)は、秩父を代表する山ですが、山梨、長野側になだらかに山脚斜面になっているのに対し、秩父側の山脚は急峻です。森林帯もそれに合わせて、垂直的な形成を示していて、伐採はひどく難儀だといわれています。それがどの程度のものなのか、自分の目で確かめたくての奥秩父入りでした。
  中津峡に行くには、雁坂峠に行く道から分かれて、10のトンネルを抜けて入ります。その日はよく晴れていましたが、寒気はきつく、滝は凍っていて、太い氷柱が垂れ下がっていました。このあたりの民家については、今和次郎さんが書いていますが、ダムで水没してしまって往時の面影は何一つ残されていません。大滝村の資料館に記録が残されていて、それが結構見ものではありましたが・・・。

  中津峡から下った後、宿所を小鹿野町に取りましたので、秩父事件の決起が行われたという吉田町の椋神社に行きました。この椋神社は、日本のロケット発祥の地でもあって、神社から道路を隔てた丘に、龍勢の発射台が備えられています。秩父事件とロケットの組み合わせは妙なものでしたが、秋山さんならロケットに頭が行き、ぼくはやっぱり秩父事件に気が回るだろうなと思ったりして過ごしました。
  秩父事件の井上伝蔵は、事件のあと出奔して北海道の石狩に逃亡しますが、今回の工務店取材の対象となっている小林建設(秩父の材を用いている)の御祖父さんが、函館五稜郭の戦いに参画し、その後、石狩におられたことを聞いていたので、そのめぐり合わせにドキドキしたものを感じ、近くの資料館で伝蔵の伝記なども手に入れ、また秩父市の図書館で資料にあたったりしました。
  井上伝蔵や村上泰治など、秩父事件のコア・メンバーの出身地である吉田町あたりから皆野町(日野沢集落)に掛けての風景は、養蚕の土地であったことを感じさせ、生糸の大暴落を受けての窮迫は、この痩せ地では如何ともし難かったことを想像させるものがありました。
  土地に刻まれた歴史を想像させられる正月の旅でした。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-07 12:52
2003年 西安でのお正月
  2003年に、中国の西安で正月を過ごしたことがあります。
  その折に、青龍寺に初詣に行きました。
  青龍寺は、空海が修行した寺です。
  青龍寺は、丘の上にあります。見晴らしがよく、空が大きく感じられます。東の空には大きな太陽が輝いています。唐の政治中心地であった大明宮とこの青龍寺は、直線の大通りで結ばれていたそうで、その距離感と、この丘に向かってのせり上がりに想像を逞しくするなら、当時の長安がいかに壮大なスケールであったかが分かります。
  この寺は、インドの名僧不空の直弟子として密教を学んだ惠果が開いた学校として知られています。その当時、この学校には夥しいばかりの数の学生がいたそうですが、空海は、破戒僧になるかならぬか、どちらに転ぶか分からぬ「やんちゃ」を抱えながら、抜きん出た頭脳と体力を持って、自分の側にぐいと引き寄せました。
  今、この寺はひっそりしていて、訪ねる人も多くはありません。信者にとっては意味があっても、普通の人にとっては、それほど見るべきものがないのが理由のようですが、しかし、この丘に立つことの爽快感は得がたいものがありました。
  この寺から東に昇る紅々とした太陽は荘厳を絵に描いたように見事なものでした。

  この丘から、かつての長安を想像していたら、もし秦の始皇帝が統一国家をつくらなければ、この国はヨーロッパのように分割国家になったのでは、ということがふいと頭に浮かびました。つまるところ、始皇帝が、統一国家をつくってしまったものだから、その後の為政者はみなそれを追うことになったのでは、と思われたのでした。
  「三国志」の「天下三分の計」は、統一国家のむずかしさを表したものですが、言い換えれば、それは統一国家への尽きない夢の裏返しであって、もし始皇帝の統一がなければ「三国志」もなかったような気がします。
  一旦バラバラになったら収集がつかないのがこの国であって、とりあえず現在の中国を統一している中国共産党に対して、経済人が別の政治勢力を押し立てないのは、そのことによる大混乱を恐れてのことだと思えたのです。今の世代は文化大革命の混乱を知っています。この世代が多数を占めている間は、大きな動乱は起こらないように思われました。
  華僑に見られるように、この国は、もともとアメリカ以上にプラグマチズム(実利主義)のつよい国です。しかし、遠からず世代は移ります。経済格差は開く一方であり、毛沢東の「造反有理」の思想が再び蘇らないとは限りません。「造反有理」は革命の言葉であり、支配層にとっては爆裂弾のような言葉です。
  この国の経済格差が大きくなって現れるのは、おそらく太平天国のような、あるいは黄巾の乱のような民衆反乱であって、中国共産党は、圧倒的な軍事・公安力を持っていますので、これを突き崩すのは容易ではありません。従って組織的なものにはなり難いのです。
  けれども、これを鎮圧し、見縊りが生じるなかで、絶対的な権力といえども破綻を生んでいくのです。絶対的権力は、絶対的に腐敗するというのが歴史の常ですから…。
  鄧小平が狙いとした「高度の発達した社会主義国」が、この世に誕生するかも知れません。しかし、一度走り出した資本主義を制御できるものかどうか。
  ぼくの想像では、小さな民衆反乱が2015年あたりに起きて、それからまた小さな動乱が幾つも起こって、10年後の、2025~2035年あたりに大きな動乱が起きるような気がしました。その時には、ぼくはもうこの世にいないのでしょうが…。
  西安にいると、そういう気宇壮大な歴史に思いに捉われるから不思議でした。
  そのとき、空はどこまでも青く、太陽は輝いていました。

  今年は北京オリンピックの年。
  日本にとって、中国は影響の大きな国です。
  個人的には、難儀を強いられた国でした。
  この国のことを注視し続けたいと思います。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-03 13:23
今年のオケラ参り
あけましておめでとうございます。
今年の年賀状は、この文章をしたためました。

新年、あけましておめでとうございます。

今年の正月は京都で過ごします。
少年の頃、八坂神社にオケラ参りに行くのが毎年
の慣わしでした。
神社に奉納されたオケラ木を焼いた「オケラ火」で
お雑煮をつくると新しい年の無病息災が約束され
る、というのです。「オケラ火」がついた火縄をクル
クルッと回しながら家に持って帰ります。
歩いていると、遠くに近くに、除夜の鐘が聞こえま
す。知恩院の大鐘が、それと分かる大きな音色で
主調音をつくります。小さなお寺の小さな鐘の音が
可愛くて、友達とぷすっと笑い合ったのを昨日のこ
とのように思い出します。
年越しの鐘から、年明けの鐘へ。みなさまのご健
康とご多幸をお祈りします。
2008年元旦


  暮れの事務所でこの年賀状を書いていましたら、スタッフから今のオケラ参りのことを書いて、といわれました。それで、四条烏丸の宿屋からいそいそとオケラ参りに出掛けましたが、四条河原町あたりまで来たら異常な状態にあることが分かりました。人、人、人の波。四条通りは「歩行者天国」になっていました。鴨川を渡り川端通りまできたら、数台のパトカーが赤いライトをぐるぐると回転させていて、救急車が行き交い、どういうわけか消防自動車まで出動しています。そのどれもが回転灯を明滅させて、騒然とした雰囲気でした。
  一力茶屋から向こうは、道路いっぱいに参拝者が溢れて、身動きがとれません。これに従っていたら夜が明けてしまうと思い、間道を通って東大路通りに出ました。東大路通りも人が溢れていました。それで少年の頃の通り道だった、産寧坂から通じる東側の入口(裏口)へと回り込みましたが、こちらは警棒を手にした警備員が睨みを利かせて、入口を塞いでいました。ここからは入場できないと言います。それで致し方なく、一端円山公園に向かって北側に迂回し境内に入ろうと試みましたが、こちらも参拝者が溢れて立錐の余地なく、身動きがとれない状態にありました。
  オケラをぐるぐる回して戻ってくる人をたまに見掛けるのですが、物珍しそうに「あれ何や?」と言い出す娘たちがいて、ぼくの叙情的な記憶は吹き飛びました。記憶を振り返ったら、あの光景はぼくにとっては昨日のことのようでしたが、もう40年も前のことだったことに気づきました。
  あの頃は人が少なくて、「八坂はん」の火をいただき、帰路に着く人たちはみんな、オケラをぐるぐる回していたのでした。底冷えの京都の年越しは、きつい寒さのものでありましたが、「八坂はん」に向かう人も帰る人も、口からハアハアと白い息を吐きながら、しかし穏やかな空気が流れていました。
  あのときに比べると、この騒然は何なのだ! 今の人は、みんなで年越しの「八坂はん」を貧しく消費しているのではないか? 何もかもが忙しないのです。パトカーの拡声器の声が大きく響き、警備員があちらこちらに立ち、まるでサッカー場に向かう観客のような感じでした。
  除夜の鐘さえそれに掻き消されて、ぼくはつよい不快を覚え、とうとう「八坂はん」の境内に入ることを諦めました。
  それで丸山公園からいも坊や湯豆腐を食べさせる料亭前を通って知恩院へと回り、そこから坂を下って白川に出て、三条大橋を渡って先斗町に回り「はまゆう」という名前の喫茶店でお茶を飲んで、宿屋に戻りました。
  結局、「八坂はん」の外側をぐるりと回るだけになりました。若い頃なら、何が何でも境内に入らずにおくものかと思ったでしょうが、ムリしないで過ごすことも大事だと考える年になり、そういう自分に合ったオケラ参りだと思うことにしました。悠々として、のんびりと行け、ということでしょう。
  今年もよろしく。
[PR]
by sosakujo | 2008-01-03 13:14