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小池創作所代表・小池一三のブログです
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映画『敵こそ、わが友』
秋山東一さんが観られて、よかったというお話だったので表題の映画を観てきました。

ナチスの戦犯、残党であるクラウス・バルビーの軌跡を追ったドキュメンタリー映画です。バルビーは,ドイツ占領下のフランスで殺戮、拷問の手腕を発揮し、夥しい数のユダヤ人やレジスタンス活動家を強制収用所に移送したナチス親衛隊の大佐でした。彼は31歳で敗戦を迎えますが、そのあと、彼は裁かれることなく、ずっと自由の身で戦後を生き続けます。「敵」であったアメリカの戦後政策のために「友」(アメリカ陸軍情報部CICの要員)として扱われたからです。フランス政府も、バチカンも、それに手を貸します。

バルビーは、ラットライン(逃亡ルート)を通じてバチカン神父の手引きによって、南米ボリビアのラパスへと逃亡します。やがて彼はボリビア軍に食い込み、彼らにゲリラ戦封じの作戦を伝授し、チェ・ゲバラの殺害を成功させたりして功績を挙げます。そしてボリビアの海運会社の社長に納まり、第四帝国を夢見て、ナチスの再結集に動きます。
荒唐無稽な話ですが、チエ・ゲバラの演説の実写や、虐殺後の遺体なども映し出され、目が釘になることもあり、また、チリのピノチェット政権との関係も伝えられ、あの時代の南米におけるCIAの暗躍と重なります。

1982年、ボリビアは民政へと移管します。それに伴い、バルビーはボリビアから追放される羽目になり、フランスに移送され、裁判にかけられ、終身刑(フランスは死刑がない)に処せられ、そうして刑務所の中で癌に冒され死にます。
この裁判において、彼は裁かれるのだけれど、果たしてバルビーを裁けるのか、戦中においても戦後においても、この憎むべき「敵」を「友」として扱い、彼もまた「敵」を「友」にすることで戦後の長きにわたり彼は泳ぐことができたのです。この歴史のアイロニーを、映像と証言は、これでもかこれでもかと執拗に追うのです。
バルビーを告発した映画というより、こういう人物をのさばらせたことに、戦後状況ということと、ひいては民衆である我々自身の「未必の故意」が炙り出されているような気がしました。
銀座のテアトルシネマで上映されています。

映画の舞台になったフランスのリヨンに、わたしは2泊したことがあります。
リヨンの旧市街は世界遺産に選ばれていて、美しい街でした。リヨンは演劇の盛んな都市であって、戦中、パリから逃れてリヨンに移住した演劇人たちは、レジスタンスの運動に深く関わり、戦後、そのままリヨンで演劇活動を再開したという話を聞きました。この映画をみながら、その関係者の何人かは、バルビーの魔の手に掛かったんだろうな、ということが想像されました。

ボリビアの首都ラパスには行っていませんが、お隣のベネズエラの首都カラカスには行っています。ギアナ高地に行く途中に立ち寄りました。チャベツ大統領が一部の軍部に拉致され、解放されたあとの騒然とした状態にあるカラカスでした。大統領府周辺は機関銃を持った兵士が囲んでいて、カメラを向けようものならバズーカ砲が飛んでくるよと通訳兼運転手に脅されましたが、冗談ではないリアリティがありました。
カラカスの空港は海の縁(へり)にあって、そこからいきなり急峻な山が立ち上がっていて、この急坂を登っていくと、夥しい数の粗末な家が崖地に建っていて、標高千メートルにあるカラカスに入ります。ラパスは、山岳都市でもっと高いところにありますが、映像でみる都市の雰囲気はカラカスとよく似ていました。集合住宅の窓の7階までが鉄格子に被われ、豪邸の塀は有刺鉄線が張り巡らされ、猛犬が吠えていました。
市内は、排気ガスを撒き散らす車、車、車で、ひどい渋滞でした。つよい夕立が降ったかと思うと、排水の悪さから、それが道路に溢れ出ていました。ストレスの大きな街だという印象でした。同じ南米でもチリのサンチャゴとカラカスではまるで違い、映画にみるラパスはカラカスに近いと思いました。
ラパスは標高が高いため、貧乏人は空気の薄い山手の方に、金持ちは鞍部の方に住むことを何かの本で読んだことがありますが、バルビーは、きっと鞍部に住んでいたんだろうな、ということも、この映画を観ながらふいと想像されました。
by sosakujo | 2008-08-02 18:26
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