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JR宮崎駅に着いたら谷口紀百さんが迎えに出ていて下さいました。
駅から空港への道をとり、日南海岸沿いの道を進み、飫肥(おび)の町へと入りました。飫肥は、もうだいぶ前になりますが、NHKの連続テレビ小説『わかば』の舞台になった町です。主演を務めたのは斉藤慶子さんでした。 苔むした飫肥石が家々を囲っていて、竹富島を思わせる感じがあって、竹富島と違うのは、あちらが南の島らしく、そよそよと海の風が吹いているのに対し、こちらは山々の緑が周囲を取り巻く小盆地であり、濃密に城下町であって、厳格端正な居住いを持っていることです。 近世の城下町はかつてこんなふうだったのでは、と思わせる点で、貴重な文化遺産でもあって、「九州の小京都」などという観光のキャッチフレーズでは括れない魅力を持っている町だと思いました。津和野よりもいい、というのがぼくの感想です。近頃の津和野は観光ナイズされていて、それをぼくはあまり好みません。 谷口工務店の紀百さんは、この町の出身で、お城のなかにある小学校で育ちました。お城のなかには、明治時代、外務大臣となりポーツマス条約締結を行った小村寿太郎の記念館があります。そういえばむかし、吉村昭の小説『ポーツマスの旗』を読んだな、ということを紀百さんに記念館を案内いただきながら思い出しました。あの小説を読んで感じたことは、小村寿太郎を通じて、外交とは「ガマンの才能」ということでした。そして寿太郎のガマンづよさは、どこかこの飫肥の町に似ているということを、今回感じました。 佐賀の乱に敗れた司法卿江藤新平が、四国の宇和島への逃走中途次、小倉処平に頼って、この飫肥に匿われていました。宇和島は、日南の港からは向う岸です。このあたりは、司馬遼太郎の小説『歳月』にくわしく書かれていて、紀百さんにいわれて、この小説のことも思い出されました。江藤新平という人は、大変な頭脳の持ち主で、大久保利通を持ってしてさえ、この才人を畏れました。自分が作った法律に自分が縛られる歴史のアイロニーを、この小説はいやというほど書いています。江藤新平という人は、多分、身近にいたらこの上なくイヤな奴だったと思います。しかし、司馬遼太郎は、この才人が持つ魅力を存分に描き出しました。 紀百さんは女性には珍しく司馬遼太郎の愛読者です。司馬の主人公たちの自由奔放、あるいは悪漢であっても魅力的な生き方に、小盆地宇宙の住人はどこか惹かれるのかも知れません。 小盆地の宇宙の住民は、その土地に言い知れない郷愁を覚える一方、そこから脱出したくてたまらない欲求にかられるようで、司馬遼太郎の主人公たちも、たいがいそういうシチュエーションに置かれた人物たちです。『竜馬は行く』は、土佐脱藩のあらましが、いちばんおもしろかったと記憶しています。盆地育ちではありませんでしたが、島育ちの『菜の花の沖』の主人公は、北と向かいました。 この飫肥の町並みのなかで、長屋門などがある、とりわけ飫肥らしい通りに、谷口工務店が建築された家があります。紀百さんは謙遜の人で、見てもらうような家ではありませんがと何回も口にされましたが、どうしてこの家の佇まいには上品があって、質感があってとてもいいのです。 この家の住人は季刊誌『住む』の愛読者でもあって、『住む』のバックナンバーを本箱に見つけ出し、ぼくはうれしくなりました。飫肥の町の住人が読んでいるというだけで、それはこの雑誌にとって誇らしいことのように思われました。 来るときは日南海岸沿いの道を選びましたが、帰りは山越えで宮崎に戻るといいます。わたしは車に揺られ、前日までの疲れもあって、不覚にもうとうとと眠ってしまいましたが、紀百さんに、飫肥杉の山が眺望される峠で叩き起こされ(いや、やさしくでした。笑い)ました。1000ヘクタールに及ぶ山が一望されて、ぼくの眠気はいっぺんに吹き飛びました。 飫肥杉は、”弁甲”という名の造船材で知られています。関西から西の瀬戸内海の木造船は、プラスチック船や鋼船に変わるまでは、みな飫肥杉で造船されました。このあたりの山は肥沃で降雨量が多く(年間2600ミリ)で、気候は温暖で(年平均気温18度)、油気が多く腐り難く、弾力性の高い材質となり、しかも大径材に育つということで、造船材として最適な材でもありました。 飫肥杉の赤身はシロアリが食わないといわれており、もっと利用されてしかるべき材ですが、いまは利用が少なく、山は間伐されることなく荒れていて、紀百さんにはそれが我慢ならないようでした。紀百さんは、ぼくの眠気を叩き起こしたのではなくて、山への怒りの声だったのだと思って安心し、下りの道ではまたうとうととしたのでした。 このあと谷口工務店で建てられた3軒の建物をみました。最初の瓦の家のところで、旦那の利隆さんに案内はバトンタッチされました。この家は諸塚村の木が用いられていて、諸塚村の材は、熊本のミズタホームさんの家を見て以来のことでした。二軒目の畳屋さんの家、建築中の最近の家、それぞれに宮崎産の木が用いられていました。太い梁材をみながら、ぼくのそれまでの宮崎産の木に対する見方、「材としてどうなんだろう」という疑念は払拭されました。これは多分に三澤康彦さんの評価に影響されてのことで、三澤さんの評価はかなり厳しいものがありました。もう一度、三澤さんに諸塚の木を見てもらわなくては、と思いました。 利隆さんのお話を聞きながら驚いたことは、宮崎の建築費のバカ安さでした。4000万円はするだろうと踏んだ家が2000万円以下の受注額だと聞いて愕然としました。何でそんなことでやれるのか、ということと、それで谷口さんはやって行けるのかという心配が立ちました。厳しい、と利隆さんはいうのですが、そんなに深刻というわけではありません。利隆さんは、大体そういう人であって、深刻なことであっても柔らかく、ときにニヤリとしながら受け止める人です。少し前のめりしがちな紀百さんとのコンビの絶妙さを感じたのでした。 夜は地元の商店街の人達の前で1時間半ほど講演し、そのあと宮崎食のお店に案内されました。ブロガーは、ここぞとばかりに写真を撮るのですが、ぼくはぼくの舌と胃袋にのみ、そのおいしさは記録されています。 ホテルの前を流れる大淀川の川面を南国の雨が叩いています。 今から飛行機で東京へと向かいます。
by sosakujo
| 2008-05-24 06:40
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