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この日曜日の夜に、BS朝日の番組で、吉田五十八さんが設計した熱海の「惜櫟(せきれき)荘」について特集番組が放映されました。この建物は、岩波書店の社長だった岩波茂雄が施主の建物で、現代数寄屋建築の傑作といわれる建物です。
「惜櫟荘」は、昭和15年に建てられましたが、建物が朽ち、この建物を買い取った作家の佐伯康英さんが私財を投じて修復されました。この建物が建築された時の岩波茂雄と吉田五十八のやり取りのあれこれ、修復の際のやり取り、そのプロセスが2時間にわたって取り上げられ、久々に見ごたえのある番組でした。 この建物のことは、岩波の娘婿だった小林勇が『惜櫟荘主人』というタイトルで書いています。わたしはこの本を、もう30年も前に読んでいて、書庫を見たら、ちゃんとありました。当時、岩波の本を読むことが多く、それを出版した岩波茂雄はどんな人だろうと興味を持ち読んだのでした。 この本は、岩波茂雄の伝記です。惜櫟荘の建築のいきさつは数ページに過ぎません。しかし、この本の中で最も印象的なもので、岩波その人を見事に語っていると思いました。 敷地は熱海の海辺です。面積は大きなものでしたが、斜面ばかりで建てられる建物の大きさは30坪に限られました。その土地のいい場所に一本の櫟(クヌギ)が立っていました。建築側が、これを邪魔だと考えて伐ろうとしたら、「これを伐るなら、おれの腕を伐れ」と言ったというエピソードが出てきます。古武士然としたこの木を岩波は気に入っていて、櫟を辞書で調べたら「やくざな木」という記述があって、それを岩波はうれがったとしています。 岩波がこの家を建てようとした時期は、津田左右吉事件のすぐ後でした。自分は多分2年程度投獄されるだろうから、身体をよくしておかねばならないと考え、また、それまでに手にしたお金をこの建物に注ぎました。少しは贅沢をしても許されるのではないかと・・・。 津田事件は、「皇室の尊厳を冒涜した」として、戦前の大帝国憲法のもと、出版法(第26条)違反で、津田左右吉東大教授が起訴された事件です。1942年に判決があり、津田は禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けました。岩波は、明治天皇のことは尊敬していて、明治維新の五カ条のご誓文のうち「万機公論に決すべし」を至高の考えとしていましたが、その真逆の「治安維持法」には苦々しい見方を持っていたようです。 岩波と幸田露伴の交友は有名で、露伴は「惜櫟荘」に何度も泊まりました。露伴には、職人を描いた『五重塔』があり、むろん岩波文庫に所収されています。 「惜櫟荘」の設計を最初に依頼されたのは堀口捨巳でした。工事は清水組に依頼されました。しかし、当時、気鋭の吉田五十八の建物を見て、いたく気に入り、堀口と清水組に断った上で、吉田に設計を依頼しました。工事は水澤工務店で、京都の大工が起用されました。 設計の進行中に、岩波 は、巻尺を手に、あちらこちらの建物を調べて回りました。 湯本の福佳に行ったときには、旅館主に頼み込んで、いくつかある家族風呂に入って回り、小林勇は紙と鉛筆を与えられ、自分は巻尺を持って、あざらしがとびこんだと、この本に描かれています。岩波の風貌を写真で見ていたわたしは、思わず笑ったものです。岩波は、その水のあふれ加減を観察し、足を伸ばして、頭をうしろにもたせて工合を考え、立って深さをみて、方々の寸法を測って小林に記入させました。うんざりするほど熱心だったと、小林は書いています。 吉田とのやり取りも凄まじく、両方、譲らないので大変だった、とも小林は書いています。 岩波は、終生、この建物を愛し、多くの人を呼んでは滞在を奨めました。没後、岩波映画で上映されたこともあって、ポーランドの映画監督アンジェイ・エイダがこの建物を訪ねました。番組は、その感想を番組で紹介し、この建物は世界に例のない、自然と融合した見事な建物だと評価しました。。 この建物の修復も大変な難作業でした。 元の材料を90%そのまま用いての再生でした。壁を削り、瓦を一枚一枚取り外し、木材を解き、それを保管して、もう一度、いのちを蘇らせました。つごう2年を掛けての再生でした。見事な仕事であったことが番組から伝わりました。 「惜櫟荘」の再生を果たした作家の佐伯康英さんは、自分はこの建物の「番人であることを自任します。 佐伯は、この建物で、原稿ゲラを推敲している時間が至悦だといいます。ちょうど外に雨が降っていて、その雨だれの音を聴いていることの幸せを語りました。自動車を買ったりするより、とても気持ちがいいとも。爽やかな人だと思いました。 話はとびますが、吉田五十八の仕事を見ながら、永田昌民さんと益子義弘さんのお仕事を思いました。 お二人の仕事は、吉村順三の影響をつよく受けていますが、その建物の表情、大壁の使い方については、彼らが学んだもう一人の先生、吉田五十八の影響がつよく見られるということでした。このことは、奥村昭雄が自分の仕事を語るに際し、わたしにこっそりと耳打ちした話でもあって、藝大建築科の当時の雰囲気を感じたものでした。 また、五十八の大壁の展開は、一方において、ハウスメーカーによるビニールクロスの多用化に道を開くものであったことを、改めて思いました。これは負の面であって、功罪は、いつの場合もついて回るのでしょうか。
by sosakujo
| 2013-05-27 23:46
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