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小池創作所代表・小池一三のブログです
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川辺川・五木村のこと
ドラスチックに政権が変わることの現実を、今、ぼくらは目前に見ています。前原国交大臣は就任と同時に八ッ場ダムの中止を明言しました。前原さんは、「革命的」なことといいましたが、命が改まるというのは、いやはや大変なことです。
この宣言をテレビで見ながら、畏友天野礼子さんが抱かれたであろう感慨に重いが及びました。天野さんは、長良川河口堰に始まり、川とダムの問題に熱心に取り組んでこられ、本もたくさん書いておられます。彼女が言ってきたことが、これほど明確に「是」とされたことはありません。むろん、ここに至るには各地での取り組みがあり、中止された例もありますが、画期的ということで言えば、今回のそれはまさに画期的なものでした。
レーチェル・カーソンも、ドネラ・H・メドウズも、彼女たちが『沈黙の春』を書き、『成長の限界』のレポートを発表した時には、変なことを言う女性と訝られました。天野さんが長良川河口堰問題で拳を挙げたときにも、それを無視する動きが支配的でした。
今回の件で、わたしは天野さんに「おめでとう」のメッセージを送りました。
でも、大変なのはこれからですね。

八ッ場ダムと並んで問題とされてきた川辺川ダムと水没がいわれた五木村を訪ね、原稿に書いたことがあります。長いけれど、その一部をご紹介しておきます。この原稿は、八代・井本工務店さんの協力を得て取材したものでした。

季刊誌「住む」(通巻21号) 連載第6回原稿  「森里海ものがたり」

(前略)

人吉、そして川辺川へ

 坂本村から人吉への道は、球磨川の両岸にそそり立つ山に挟まれた狭窄部を上る。いつまで続く山道かと思うと、急に視界が開け、空が大きくなる。そこが人吉である。
井本さん(八代・井本工務店)は「人吉は広いとでしょ」という。民俗学者の宮本常一は「この地は実に明るくゆたかである」と書いているが、東西25キロメートル この紡錘状の断層角盆地は、かつては湖だった。
人吉といえば球磨焼酎である。肥後、薩摩の二大勢力の緩衝地帯として戦乱を逃れたこともあり、鎌倉時代の貴重な史跡、文化遺産も多い。料理屋も多く、腕利きの料理人によって、日本一大きな鮎とされた尺鮎が捌かれた。殊に人吉から分れる球磨川最大の支流、川辺川の鮎は格別とされた。白く泡立つ瀬は、水中に酸素を多く供給してくれ、川底の岩という岩、石という石の表面には、びっしり苔が覆っていた。香魚といわれる鮎の芳ばしさは、このゆたかな苔を餌として成育した。井本さんは、ここは釣り人にとっても、水ガキにとっても楽園だったという。
 今の鮎は、海から遡ってきた稚アユを八代の川堰ですくい上げ、荒瀬ダムと瀬戸石ダムを通過して、上流に車で運んで放流している。八代川堰での採捕数は激減し、球磨川漁協が捕獲した稚アユは250万尾に過ぎない。外来種は球磨川オリジナルの稚アユの三倍にも達する。昔は億の単位の稚魚が上がっていたというから、あまりに情けない。 
 そしてこれに決定的なダメージを加えているのが、川辺川ダムの建設である。
 川辺川の長さは62キロ、流域面積は533平方キロ。いずれも、球磨川本流の49キロ、485平方キロを上回る。川辺川は、球磨川の全流域面積の三割を占め、流量は本川よりも約四割も多い。川辺川ダムは、この川を堰き止めてつくろうというのである。 
 ダム本体こそ、建設反対の声に押されて阻まれているが、「関連工事」と称される工事が図々しくも進められていて、川辺にはクレーン車やブルドーザーが蠢き、稜線近くを走る道路はダンプがひっきりなしだった。雨水時の川の汚濁は、どこもかしこも露出した土が物語っている。
 最近の川辺川の鮎の内臓は臭くて食べられないというが、想像に難くない。ダム兼摂予定地の相良村四浦には、絶滅危惧種に指定された猛禽類のクマタカが営巣しているとのことで、人間がここまで自然を壊していいのかと思った。本で読んだ川辺川のかつての姿は、もう消え失せていた。

五木村にて

 五木村には、あるイメージがある。一つは焼畑 蕎麦 稗 粟 山茶(香気がつよい)によって。もう一つは「五木の子守唄」によって。
 「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ぁ おらんと 盆がはよくりゃはよ戻る」
 小学校をあがったら女の子は、子守奉公に出された。村人はほとんど土地を持たない名子百姓だった。子守唄の三番に「起きて泣く子のつらにくさ」という歌詞がある。それにしても「つらにくさ」という表現は苛烈である。この苛烈が、この村の現実だった。貧しい家でも、それでも家に帰りたいという哀切に琴線がゆさぶられる。 
 しかし、この歌の世界は完全に伝説となっている。村そのものが忽然と消えて、奇妙なニュータウンが山奥に現出していた。正確にいうと、村はまだ川底に沈んでいない。そればかりか、役所や郵便局があった村の中心地、五木村頭地地区は、そこから30メートル上がった斜面の平場から眼下に見渡せる。建物は取り壊され、昔の道路と何本かの木が残されていて、亡び村はもの哀しくあった。
 あと隠しの雪ではないが、雪によって覆い隠されるか、水面下にあるなら、まだ救われるように思った。
上の平場には国道445号線が通っていて、その向こうに、役所も、学校も、診療所も、家々もみんな立派な、新しい「五木村」がつくられていた。そこには「道の駅」も設けられていて「五木の子守唄」の各種グッズが売られていた。「道の駅」の横には、記念的に茅葺の家が建てられていたが、そこに人けはなかった。
 新しい五木村の「村民憲章」に「相手の立場を尊重し、心のふれあいを大切にします」と記されていた。この文言を一番目に掲げたところに、ダムをめぐる諍いの歴史と、ずたずたにされた人間関係を、わたしは垣間見たのだった。
by sosakujo | 2009-09-22 10:24
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